最後の眠り姫(11)~(25)

最後の眠り姫
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11話
「さぁ。エミーリエ。あんまり泣いていると朝食が美味しくなくなるよ」
「そうね。きっと私のために一生懸命作ってくれたのだものね」
 そう言いながら涙を拭う。
「今朝は慣れてもらおうと思ってこの国の朝食にしたよ。変わったパンだろうから期待してて」
「そんなにすごいパンなの?」
「君にとってはね。さぁ。行こう」
 クルトが手を引く。すぐに食卓の間に入った。
 フリーデが控えている。
「フリーデは食べないの?」
「私はまかないを頂きましたので」
「まかないは明日からバツね。ここで一緒に食べて」
 私のまたのわがままにフリーデが困る。
「お姉さんになって、って言ったでしょ」
「それでもこの、お仕えできる喜びを捨てるわけには」
「そんなに嬉しいの?」
 戸惑いながら聞くとフリーデは満開の笑顔がはじけた。
「もう。負けたわ。でも昼食か夕食は一緒よ。クルトが何時もいるとは限らないんだから」
 私が文句を言うとそれじゃぁ、と控えめにフリーデが言う。
「クルト様のおられないときなら・・・」
「ちょっと。俺、追い出されるじゃないか」
「あーら。よく解ってるわね」
 にっこり笑う。
「誰だ。さっき母御を思い出して泣いていた姫は」
「誰かしらねー」
 すっとぼける。フリーデが心配そうに私を見る。
「だた、お母様の声を思い出しちゃったのよ。つい、ね」
「そうでございましたか。それは・・・」
「だから敬語は・・・!」
「お仕えしている間は変わりません。お食事を一緒に取るときだけです」
「じゃ、クルト追いだそーっと」
「おひっ」
 そこへまた姉と弟が入ってくる。手にはそれぞれお盆を持っている。
「エミーリエ! クルトと二人じゃさみしいでしょ。姉上が来たわよ」
「姉上、僕が言ったから来たんでしょ? 言わなかったらまだ寝てくせに」
「チビはだまってなさい!」
「チビじゃないもん!」
「チビはチビよ!」
 口論が続きそうなので間に入る。
「で、食べないの?」
「食べる!」
 二人が食卓におぼんを乗せる。ヴィルヘルムの方は私が手助けする。そうこうしている間にフリーデは二人の飲み物を用意してきた。好みまで把握してるみたいだった。さすがはお仕えするだけの一族。しっかり他の人でも通用するようにしつけられたのね。私なんて行儀作法なんて豚に真珠ものだったわ。
「フリーデ偉いわね。私なんてなーんにも覚えてこなかったわ」
「馬には乗れるだろう?」
「ええ。あとは少々剣を・・・」
「だったね。その時の剣は重かっただろうね。今はものすごく軽いよ。今度持って見るといいよ。俺の剣を貸してあげるよ」
「クルト様! 姫様にそのような危険な事を!」
 珍しくフリーデが突っ込む。
「一応、王子の妻だからね。いつ何が起こるか解らないよ」
「ですが!」
 フリーデが引き下がらない。珍しいものを見てしまったわ。ああ、それより間取り持たなきゃ。
「大丈夫。剣持って人殺しなんてしないから。あの時は戦があってね。女性でも持つしか無かったのよ。母は弓の名手だったわ」
「そんな・・・」
「そんな悲しそうな顔をしないで。この飲みもの美味しいわね。もう一杯作ってくれる?」
 アールグレイというアイスティーだよ、と用意してもらっている間にクルトが耳打ちする。そう、とにこやかに肯く。クルトの優しさに惹かれて始めている自分がそこにいた。たった出会って二日目にして。母も父もそうだったからきっと血筋ね。私はにこにこと笑顔の大安売りをしていた。この国には危険など全くないと信じて・・・。
12話
私は夢の中で剣を握っていた。とても軽い、細身の剣を。そしてその剣には血がしたたり落ちていた。目の前に倒れている人がいる。誰なのかはっきりわからない。ただ、心は恐怖に戦いていた。
 ここでも安全はない。
 その事実に絶望感を抱いた。そこへあふれる光が差し込む。
 私は目を覚ました。
「夢、だったのね」
 ぽつん、と言う。
 フリーデがカーテンを開けて夏の光が入ってきていた。
「おはよう」
「おはようございます。・・・どうなさいました? ご気分が悪いのですか?」
「いいえ。・・・いいえ」
 否定するけれど、声が震える。手に着いた血の匂い。知らないのに今の私の手にも着いている気がして体を自然と自分で抱きしめていた。
「失礼します。・・・お熱が! すぐ医師を呼んで参ります。いえ、その前にクルト様に!」
「クルトに?」
 私は不思議そうにフリーデを見上げる。
「エミーリエ様にとって一番大事な方に伝えず、どうするのですか! しっかりなさってください!」
 一瞬、フリーデがお母様に見えた。ぎゅっと抱きしめられる。懐かしい感触だ。フリーデは泣き出した私にハンカチを握らせると駆けていく。すぐにクルトが飛んできた。フリーデはいない。目で探すとクルトが即答する。
「医師を呼びに行った。夏風邪を引いたのかもしれない。心配は無い。この時代にはそう危ない病気はないんだ。昔、クリスタ王女がかかった奇病も今ではしっかり対応できる。何か飲みたいものはない? 脱水症状を防がないと。熱が出ている。額とわきを冷やして。首でもいい。フリーデにしてもらって。俺は流石にレディの体に触ることはしたくない」
「って。抱きしめてるじゃない」
「服をちゃんと着てるからね。夫ならまだしも。まだ婚約者にもなってない。未婚の女性にすることじゃないよ。さぁ、何が飲みたい?」
「昨日飲んだ、あのアールグレイのアイスティー」
「わかった。フリーデが医師と戻れば作ってもらうよ。それまで寝ていた方がいい」
 クルトが腕を離そうとしたけれど、私はぎゅっとしがみついた。
「剣を持っていたの。誰かを殺したの。それが怖くて・・・」
「王家の人間は何かの拍子でそんな事に巻き込まれる。怖くないよ。そんな事態に陥った人間は何人もいる。それが悪い時とは限らないんだから。自分を守るためにするときもある。そういう事だよ。そんな怖いことは俺がさせない。だから、安心して。さぁ、もう。横になった方がいい」
「うん」
 まるで小さな幼子になったように答えると寝台に横たわる。そのすぐ後にフリーデが飛び込んできた。
「こちらです。エミーリエ様。もう大丈夫です。クルト様。ここは医師と女性だけにする方が・・・」
「わかった。じゃ。飲み物をもらってくるよ。すぐ戻るからね。大丈夫」
 髪の毛にクルトはちゅーと言って口づけをすると飛び出ていった。案外クルトも落ち着いた振りをしていたのかもしれない。大事な人が突然病気になれば誰もがうろたえる。クルトはそうならないようにしてくれていた。誰よりも気にかけてくれていた。そういう事がなぜだか解った。魔力を共有した相手とは気持ちが通じ合うという。お母様とお父様もそう言っていた。でも、魔力を私は共有していない。心は通じない。なのに、クルトの気持ちがなんだかわかった気がした。ぼんやり考えている間に診察が終わり、フリーデの言ったとおり夏風邪だった。疲れがでたのだろうと言われた。あれだけ寝ていて疲れも何もないけれど。フリーデに体をふいてもらって新しい寝間着に着替えるとすっきりした。すぐに薬が効いて眠くなる。だけど、クルトの声が聞きたかった。一生懸命瞼をあけているとクルトの姿が見えた。ほっとしたその瞬間、また夢の中に私は落ちていったのだった。
13話はっと目が覚めた。誰かの気配を感じて。
「誰?」
「誰、とは失礼だな。未来の夫に向かって」
「夫? クルトなの?」
「いいや。クルトより君に似合う王子だよ」
 その声がヘビのように絡みついてくる。私は即座に言う。
「出ていって!」
「じゃ、いいのかい? このフリーデがどうなっても」
「フリーデ?」
 カーテンは閉め切られ暗い室内にフリーデが縄かなにかで自由を奪われていた。
「ここはクルトしかこれないはずよ。どうやって入ったの?」
 詰問するとにやり、と男は笑った。いや、私より年下だ。それなのにもっと陰惨な気を纏っていた。
「姉上!」
 突然、ヴィルヘルムが飛び込んできた。目が紫に光っている。とっさに止めないと、と思った。
「ヴィー! ダメ!」
 ぎゅっと抱きしめる。ヴィルヘルムに魔力が満ちているのを感じる。これを放出するのは危ない。この嫌らしい少年だけでなく、フリーデにも被害が拡大する。私やヴィルヘルムは魔力があるから防御できるけれど。
「ふん。そんな虫けらなチビ王子なんてすぐにあの世行きだ」
 きらり、と光るものが見えた。思わず、手刀でたたき落とす。ヴィルヘルムは視線で殺してやりたいと言うほど目が光っていた。
「この女。下手に出りゃ。お前を妻にすれば覇王になれると聞いてきたのに。使い物にならんな。死ね」
 腰に帯刀していた小刀を少年は抜く。私は間一髪で落とした剣を持っていた。自然と体が動く。小刀は私も持っている。だけど長剣の方が威力は大きい。持ったままの剣で少年に一振りした。少年が倒れる。血が床に流れる。急所を狙ったわけでも亡いけれど出血が大きい。殺してしまった。思わず、床に座り込む。ヴィルヘルムがフリーデの縄を解いていた。
「エミーリエ!」
 クルトとカロリーネお姉様が入ってきた。
「お姉様!」
「この子は側室の子のそのまた従兄弟。大それた事を企てたわね。エミーリエ。別の部屋で療養なさい」
 まるでお母様のような調子でカロリーネお姉様が言う。まさか。ある事実に思い当たる。
「お・・・母様?」
「今はカロリーネよ。エミーリエ。ヴィーがおじい様である事も知っているわ。そっと見守るつもりだったけれど、こう物騒ではね。さぁ、行きましょう。クルト、後始末お願い」
「姉上も、か・・・。やりにくいなこの人間関係。エミーリエ。あとで必ず行くから待ってて。この部屋は汚れてしまっている。ちゃんとした部屋はまだいくらもあるからね。待ってて。俺の姫。はい。ちゅー」
「いたしません!」
「なんだ。笑ってくれないのか」
「この場で笑える方がおかしいわよ。笑って欲しかったら変えた部屋でちゅーと言って頂戴」
「君が勝ち気でプライド高いというところに救われてる。さぁ。フリーデも一緒に行くんだ」
「でも」
 フリーデは手首に血がにじんでいた。はずそうとしていたのだろう。
「フリーデ。新しい部屋で、冷たい飲み物と食事を用意して。あなたの手首も治療しなきゃ」
「エミーリエ様・・・」
「私は大丈夫。クルトやみんながいるから。さ」
 フリーデの手をつかんで立たせる。
「流石、姫様。お強いのですね」
「弱いところは夫にしか見せないのよ。そうお母様から教わったから」
 そう言ってカロリーネお姉様を見る。もういつものカロリーネお姉様に戻っていた。ヴィルヘルムの目も光っていない。私は何故かすたすたと歩き出していた。
14話

 私はすたすた廊下を歩く。どこに何があるのかもわからず、ただ、がむしゃらに歩いていた。するとフリーデが手を握る。
「大丈夫です。強いふりをしなくていいのですよ。エミーリエ様」
 思わずフリーデの顔を見る。優しい顔をしていた。慈愛に満ちた。やはり、お母様はカロリーネお姉様だけどフリーデに面影が重なった。
「お母様・・・」
 小さく呟くとフリーデに抱きつく。泣き叫ぶ事はなかったけれど、さっきのショックが戻ってきた。騎士の娘といえど、まだ幼い心の私。人を殺した事実は重かった。涙が流れる。
「さぁ。エミーリエ様に用意された部屋は百以上もあります。その内、一番素敵なお部屋があの部屋でしたが、劣らぬ部屋がこちらです。さぁ。夏風邪を治しましょう」
 フリーデが扉を開け放つとそこは光の世界だった。キラキラ輝く硝子や窓から差し込む光が部屋一杯にあふれいた。
「さぁ。ベッドはこちらです。こちらの方が過ごしやすいのです。空調も全自動ですから」
「全自動?」
「勝手に快適にしてくれるってだけです。なんらご心配はありません。さぁ、こちらに。その前にお風呂で身を清めますか?」
 ああ。私の手は血で汚れていたのだった。そう思い出す。
「そうね。清めたいわね。騎士の娘でも怖いものは怖いわ」
「当たり前です。いくら訓練されていても剣を何の感情も持たず扱うことなどできません。思いっきり泣いていいのですよ。ここには他人はいません。エミーリエ様の家族ばかりです」
「フリーデも?」
「はい。お姉さんになってとおっしゃったじゃないですか。剣を手で落としてその剣で賊を容赦なく切り捨てられた姫様はフリーデの自慢の妹のになりました。あれほど強い姉を持てたことを非常に誇らしく思いました」
「フリーデお姉様」
 思わず、しがみつく。そこで返り血を浴びているのだったと気がつく。
「ごめんなさい。汚れるわね」
「洗えばいいことです。さぁ、熱もお下がりのようですし、アールグレイをご用意しておりますから、こちらのお風呂で清めてきてください。寝間着はお風呂の途中でご用意しておきますから」
「ありがとう。フリーデ。ヴィーもカロリーネお姉様も」
「姉上、僕達なら大丈夫。お風呂入ってきて」
 ヴィルヘルムがにっこり笑う。泣きそうになって慌ててお風呂に向かった。
 湯船の中で自分の手をじっと見る。この手で人を切った。お父様はそれを何度もしておられた。お母様もどういうことか知っておられた。私だけ子供だったのね。そう思う掌に滴が落ちる。私はお風呂の中で唇をかみしめながら泣いたのだった。
15話
「エミーリエ様、起きておられますか?」
 フリーデの声ではっと目が覚めた。極度の緊張から解放されて私は眠気を感じて少しうとうとしていた。
「危ない。水没するところだたわ。フリーデ! 今から出るわ!」
「はい。では着替えを置いておきましたのでお着替えください」
 そう言ってフリーデの気配が消える。私は長い髪をうっとうしく思いながら出る。そこには寝間着が置いてあった。まだ、夏風邪が治っても万全の状態では無かった。着替えて部屋に戻る。そこにはヴィルヘルム達がケーキの取り合いをしていた。ヴィルヘルムが二つも三つも確保しようとしている。
「ヴィー。それは食べ過ぎよ」
「姉上! 大丈夫ですか?」
 ヴィルヘルムが飛んでくる。
「この通り、ピンピンしてるわよ。お父様に剣を習っていてよかったわ。フリーデ、手首の調子は?」
「大丈夫です。もう少しで縄抜け出来そうだったのですが。姫様に剣を持たせてしまい、申し訳ありません」
「何言ってるの。姉妹でしょ。どっちかがやらないと終わらないのよ」
「その通りだよ。エミーリエ」
「クルト! あの王子は」
 クルトの顔見てどっと安心感が広がっていく。どうしてかしら。
「急所は外れていた。ただ、監獄行きだね。事もあろうにも伝説の姫を手にかけようとした咎で。命が助かっても一生光を浴びることはない。君には厳しい現実だね」
 クルトがそっと抱きしめる。その腕の中で思い出す。
「クルト。私を妻にしたものが覇王となるとはどいうこと?」
「とりあえず、難しい話しの前に水分補給」
「クルトはいつもそればっかり」
 頬を膨らませるとクルトが指でつつく。
「さぁ。今から話すから」
 からん、とグラスの中の氷が鳴る。
「伝説の眠り姫を妻にしたものはやがて覇王となるであろう、と・・・君のおじい様の影響か、そんな話しがまことしやにささやかれるようになったんだよ。君の存在が手紙でわかると。でも、それは事実ではない。そこにそんな事を書いていなかったのは君も見てるだろう? 勝手にみんなが伝言ゲームして伝説になっただけだよ。それにこの平和な時代に戦はないよ」
「そうよね。覇王となる人は別にいるもの。ね。ヴィー」
 ちら、と見ると面倒くさそうにしている。
「僕はケーキを三つ食べたいだけ」
「私の分を挙げるから、カロリーネお姉様にケーキあげなさいよ」
「はぁい」
 本当に子供なヴィルヘルムがおじい様なんて信じられない。それにカロリーネお姉様がお母様なんて。
「今見てる風景が今のものだよ。過去を振り返らないで。俺の姫君」
 クルトが軽く抱きしめる。
「アールグレイが飲めないわ」
「そうだったね」
 クルトはちゅーと言って私を笑わせると頬にキスする。そして減ったアールグレイを注いでくれる。
 平和な時間がまた戻ろうとしていた。
15話
始めてこの地に来た暑い夏はすぎ、秋になろうとしていた。服装も半袖からやや長めになり、スカートの丈も伸びた。相変わらず、カロリーネお姉様のお人形ごっこに付き合う。家庭教師の下で言葉は学んでいたけれど、そればかりでは息が詰まると言っては毎日とっかえひっかえ服を着せられていた。クルトは、流石は国王となる身とあって、仕事が山積みだった。なんとかきりをつけても後から後からやってくる仕事に忙殺されていた。
 私はそれを少し面白くなかったけれど、しかたないわよね、と諦めていた。
 そんな私の宮殿にクルトがやって来た。走ってきたのか、少し汗をかいていた。
「エミーリエ! 遠乗りに行こう! 見せたい景色があるんだ。馬は乗れるだろう?」
「ええ。でもこんな夕方に?」
「だからだよ。急ごう。陽が落ちないうちに」
 手を引っ張られて厩に行くと二人で遠乗りに出かけた。急ぐクルトの馬の後ろを追いかける。ある所に来ると、クルトは馬を降りた。私も降りる。
「ほら、見て!」
 目の前には雄大な夕日が落ちようとしていた。その輝きが眩しい。秋の素晴らしい夕日に感動する。
「これをエミーリエに見せたかったんだ。この夕日の向こうに魔皇帝の逃げ延びた土地がある。だけど、今は隣の国なんだ。一つだった帝国は二つに分かれてしまった。誰を君主とするかで。法王が教皇として主となるか、王が王位を持って統べるかでもめたんだよ。そして、国は二つに分かれた。今、統一しようという動きがある。だけど、まだ戦争は起きていない。きっと俺の時代はまだ二つに分かれたまま。ヴィーがまた統一するんじゃないかな?」
「クルト! 知って・・・」
「るよ。君のおじい様の生まれ変わりだってね。本人はバレてないと思ってるから黙ってるけれど。カロリーネ姉上もね」
 目を丸くして驚く私にクルトは近づくとちゅーと言う。そのまま顔が近づいて・・・爆笑した。やっぱり笑うしかない。キスの時にちゅーなんて。子供じゃあるまいし。ケラケラ笑っていると急に抱きしめられる。どきり、とする。
「ちゅーじゃない、抱きしめるのは笑わないんだ」
「あ」
 意表を突かれて声がでる。
「じゃ、これは?」
 こちょこちょとくすぐってくる。くすくす、笑いがこみ上げる。
「クルト、止めて。笑いが止まらないじゃない・・・」
 けらけら笑っているとキスされる。
「そうやって笑ってる君を見てると嬉しいんだ。君が好きだなぁって。その笑顔が好きなんだ」
「クルト・・・」
「ちゅー」
「クルト真面目な所よ!」
 言ってもまた「ちゅー」と言う。私は笑いがこらえられなくなって大笑いする。いつしか夕日は落ちていた。夕闇が当たりを包む。
「さぁ。体が冷える前に帰ろう。この大爆笑が聞きたかったんだ」
 さっと頬にキスすると馬に乗る。私はその感触を味わっていたかったけれど夕闇に急かされて馬に乗る。そしてまた宮殿に帰ったのだった。
16話
私が来た異国はもう秋を過ぎ冬の最中だった。そんな雪がちらつく中、私はクルトの宮殿と繋いでいる回廊を走っていた。もう、ヴィルヘルムやカロリーネお姉様も出入りしているから専用通路ではないけれど、その回廊からクルトの宮殿に飛び込んだ。
「クルト!」
 クルトの執務室の扉をノックもせず、勢いよく開けた。
「クルト! やっと出来たわ!」
 浮かれている私にクルトは不思議そうにする。
「何が出来たんだ?」
「だから、出来ているのよ! 言葉が!」
「言葉? どういうこと?」
「だから、あなたの国の言葉を覚えたのよ! まだ、読書は辞書を引かないといけないけれど。今話しているのはこの時代のこの国の言葉なのよ!」
 大声で主張してもクルトはぴん、ときていない。
「古代語じゃないってこと?」
「そうよ。今、同じ言葉を話しているの! やったわ。やっと地獄の語学勉強を卒業よ!」
 嬉しさがはち切れんばかりの私と比べてクルトはあまり嬉しそうではない。
「嬉しくないの? 同じ時代の、同じ国の人間になったのに」
「そうして、俺を置いて宮殿を出て行くの?」
「クルト?」
「君は言った。出来る事ならこの宮殿を出たいと。その辺で一人で生きていきたいとうるさく言っていたじゃないか。俺を置いていくの?」
 私はぽかん、とした。そんな言葉いつ言ったのかしら。
「最初に来て言葉が通じないから出て行けないよ、って俺が言ったんだ。そうしたら君は辛そうだった」
「そりゃ、見も知らぬ相手に嫁げと言われて納得できる女性がいると思う? 自分の好みの相手と結婚したいわよ」
「じゃ、俺は好みじゃないわけだ」
「何、すねてるの? 私が嬉しいのはクルトともっと言葉でこの国の事を知ることが出来るからよ。私は、クルトを好みじゃないって言ってないわ。始めは何もかもが進みすぎて怖かったのよ。でも、私はクルトの亊好きよ。この気持ちがなんなのかはまだ見えていないけれど。聞いてるの? 私はクルトが好きなのよ。ちょっとは嬉しいとかないの?」
「あ。いや、捨てられるんだ、って思ってて・・・」
「捨てて欲しいの?」
「あ。いや、そうじゃなくて・・・もう! ちゅー」
 そう言って迫ってくる。この国の言葉でも「ちゅー」はおかしい。笑いがこみ上げる。
「もう。真剣なときに笑わせないでよ!」
「いいんだ。エミーリエが笑ってくれれば。ほら。こちょこちょ」
 何時ものちょっかいが始まると私は笑い転げる。それを満足そうに見るクルト。その眼差しにどきり、とする。クルトと本当に結婚するのかしら? でも、ここを出て行っても行く当てもないし、クルトは優しくて面白い。少しは、考えてみようかしら・・・。ちらり、とそんな考えがよぎったのだった。
17話
「見て! クルト! 雪で真っ白よ!」
 初めて見た雪に興奮しながら、誰かに教わったわけでなく、雪玉をつくる。そしてクルトに投げつける。
「痛いじゃないか。雪がそんなにめずらしい? 君の生きていた土地と一緒だよ?」
「両親が西へ逃れたから雪は知らないの。こんなに綺麗なんて知らなかったわ」
「こういう事も出来るんだよ」
 クルトが少し大きな雪玉と小さな雪玉を作って上下に載せる。
「雪だるま、って言うんだ」
 そうしてまた小さめの雪だるまを作る。
「これが俺で、こっちがエミーリエ」
「可愛い」
 指でそっと触れる。なんだか恥ずかしくて嬉しかった。クルトの隣にいられるのが嬉しかった。
「嬉しいの? どうして?」
 クルトが不思議そうに聞く。
「わからないの? あなたの隣にいられるからに決まってるじゃない」
 言ってから気づく。自分の気持ちに。兄弟でもなく、親戚でもなく、恋人として好き、という事に。もう。結婚、ね。クルトの優しさに惹かれていた。クルトが隣にいることが当たり前になっていた。そして、それが一番嬉しい事だと。
「それって・・・」
「もう。朴念仁ね!」
 雪玉を作ってぶつける。クルトは今度はひょい、と避けた。
「ほんとにほんと? 俺の側がいいの?」
「そうよ! あなたの隣にいたいの。一生!」
 そう言ってまた雪玉を作って投げる。そして走って逃げる。「ちゅー」と来そうで。クルトが追いかけてくる。ふいに、後ろから抱きしめられた。
「『ちゅー』はなしよ」
「じゃ、こうだ」
 私を振り向かせると予告なしのちゅーが来た。どれぐらい時間が経ったのかもわからないほど、くらくらするようなちゅーが続く。それを壊しに弟と姉がやって来ていきなり終わる。
「あー! ちゅーしてるー! それは婚礼までだめだよー」
「そうよ。乙女に気軽に触れるなんて!」
「いいじゃないか。正式に婚約者なんだから」
 クルトの言葉に二人が私とクルトを交互に見る。
「ほんと? 姉上」
「そうよ。でも、肝心のエンゲージリングがないけれど」
「それは、暖かい部屋で代々伝わっている指輪をあげるよ」
「代々?」
「そう。魔皇帝の妃に贈られた指輪が、君へのエンゲージリングとして伝わっているんだ。それを持つ資格がある人間は一人、君から愛を受けた俺だけだ」
 そういってまた予告なしのちゅーをしかけるけれど、ヴィルヘルムが間に入り込んで妨害する。
「ヴィー!」
 二人で文句を言う。
「男女交際は健全に」
「何それ。どこかの標語みたいに・・・」
「姉上も言葉が随分、上達したね。あとは婚礼の書物を読破ししてね」
「なにそれ」
「ああ。指輪とともに贈ることになっている書物だよ。君の母君がしたためた、君への妻になる女性としての決まり事だよ」
「何、お母様は書いてるの。手紙に事細かに娘のこと書いて、さらに婚礼の決まりもなんて・・・」
「それだけ、あなたが心配だったのよ」
「カロリーネお姉様?」
「まぁ。わからないところがあれば聞きに来てね。ドレスの試着をしましょ」
「お母様になるか、お姉様になるかどっちかにして!」
 クルトと二人きりで雪を楽しみたかったのに、この二人はどこまでもだいなしにしてくれる。
「ヴィー! 雪玉あてるからね」
 そう言うとヴィルヘルムは間から離れて早速、雪玉を作る。負けじと私とクルトも作る。
「二人もなんて卑怯だよー。カロリーネ姉上、加勢して」
「ほい、来た」
 いつまでも四人で雪遊びを楽しんだのだった。
18話
雪遊びをやるだけすると、冷えた体を温めるために、自室で暖かいレモネードを飲んでいた。クルトだけが、用事があると言っていなかった。
「もう。くたくた~。ケーキみっつ~」
「経費削減でないわよ」
 カロリーネお姉様が言う。
「経費削減?」
「逆プロポーズしたのでしょ? 春に婚礼の式を挙げるに決まってるじゃない。盛大な婚礼を挙げるにはこの国はお金持ちじゃないの。でも内外に示しをつけるためには派手にしないといけない。そこで!」
 カロリーネお姉様が指をたてる。
「経費削減なのね。でもケーキみっつ削減しても変わらないわ」
「ちりも積もれば山よ」
「まぁね」
 そこへクルトがやってきた。
「エミーリエ、開かずの間に行くよ」
「え? あそこは私でも入れない場所じゃなかったの?」
「状況次第さ。さぁ、行こう」
 手を引かれて開かずの間にいく。クルトはどこから持ってきたのか鍵を開ける。開けた途端、豪華な内装に驚く。シャンデリアが輝き、まるでクリスタルが集まって出来た部屋みたいだった。
「眩しい」
「眩しいほどの事をエミーリエはしてくれたんだよ。さぁ。その玉座に座って」
「こ、こう?」
 高座の椅子に座る。するとクルトは突然跪く。
「我が、愛しのエミーリエ姫。この指輪を受け取ってください。私の永遠の愛の印です」
 古い布で覆われた中から出てきたのは、この部屋に匹敵するほど眩しいダイヤの指輪だった。
「これがおばあさまの・・・」
「左手出して」
「こ、こう?」
 余りにもまばゆくて正視できない。でも、真剣なクルトの顔は見ていたかった。すんなり指輪は入った。まじまじと見つめる。
「それから、これが母君から伝えられてきた君への婚礼の決まりをぎっしり書いた本」
「わ」
 ずっしりと重い本に落としかける。中を開く。懐かしいお母様の字だった。涙がこみ上げる。嬉しいのか懐かしいのかわからない涙がこみ上げる。
「泣いちゃダメじゃないか。折角のプロポーズに」
「プロポーズだから泣くんでしょ?」
「カロリーネお姉様!」
「古代語だからわかるでしょ?」
 今はエレオノーラお母様になっている。思わず言う。
「お母様かお姉様に統一して!」
「たまに出てくるのよねぇ」
 もう・・・。ここの姉弟達は・・・。そうしている内にお付きの人が何人もつれている威厳のある方が入ってきた。
「ようやく、実ったのですね」
 はい、と嬉しそうにクルトが答える。この方は・・・。
「母上だよ」
 ヴィルヘルムが椅子に近づいてそっと耳打ちする。
「まぁ。お母様なんて。失礼しました。お初にお目にかかります。エミーリエと申します」
 家庭教師に習った通りに最高級のお辞儀をする。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。もっと気楽に。親子になるのですから」
「でも・・・」
「でももすともないよ。娘が姉上一人だからもう一人増えて嬉しいんだよ」
 クルトが説明する。
「では、妃殿下。本当に春に婚礼の式を挙げるのですか?」
「お母様と呼んで頂戴。妃殿下なんて堅苦しいわ」
「では、お母様、国が困窮してても婚礼の式は派手に?」
「そうね。少し派手すぎるのが嫌のようなら手を打ちますよ。これからは婚礼の式の準備でいそがしくなるわ。覚悟しなさいね」
「はい。お母様」
「可愛いエミーリエ。クルトがなかなか会わせてくれなかったのよ。エミーリエが減ると言って。カロリーネ達は自由に出入りしてるのに」
「それは母上もエミーリエとお人形ごっこするからです。姉上より大変なのはわかってるでしょう?」
「カロリーネを産んだ母ですからね。遺伝よ」
 いつまで経っても会話が終わらない。私はずっしりと重たい本を持て余していたのだった。
19話
それから私達の婚約を祝う内輪の食事会があった。初めて、お父様になる国王陛下とお会いした。笑い上戸で優しい方だった。もちろん。お母様となる王妃様の尻にしかれていることは明白だった。政治は違うだろうけれど。
 異母兄弟達がいるとは聞いていたけれど、この内輪の食事会には誰も来ていなかった。
「クルト。他の方達は?」
 不思議に思って隣いるクルトに聞く。
「これは俺たちのためだけの食事会なんだ。眠り姫と王子の婚礼を祝う。うちの国は貧乏だからね。あの派手好きな方々は不満だらけだと思うよ」
「離婚なさらないの? 別居とか」
「さぁ。父上はみんなに平等にって思ってるけれど、それじゃ、不満な方々なんだよ。父の愛を独占したい方々が多くてね。この国は女の子が生まれるのが少ないから、自然と側室が増えたけれど、結局、カロリーネ姉上と君しか我が王家に未婚の女性はいない」
「って。普通跡継ぎ争いじゃないの? 娘争いなんて聞いたことないわ。変わってるのね」
「君にいわれたくはないよ。君こそ不思議の塊なのに」
「どこが?」
「ちゅー、と言うと爆笑するところ」
「そこ? 結局は」
 私達だけでこそこそ話していると視線を感じる。いつの間にか家族となる全員が私達を見つめていた。
「何、見てるんですか!」
「いやー。エミーリエは妃とよく似ている、と思ってな」
「陛下!」
「お父様と呼んでおくれ。私に娘が二人もできるとは。幸せな人生だ」
「なにもそこまで・・・」
「それぐらい女の子が生まれるのは難しいんだ。だから男はあふれてるから、いつも気が気でなかったよ。どこかの誰かと恋に落ちて駆け落ちされるんじゃないか、って何時もこの宮殿見ながら執務をしていたよ」
「そんなの、言葉も通じないのにあるわけないでしょ。思いすぎよ」
「それだけ君のことが大好きなんだ。誰にも奪われたくない」
 そこでヴィルヘルムの突っ込みがはいる。
「カロリーネ姉上には強奪されてるのに」
「次は私の番、ね」
 お母様がにっこりなさる。その笑顔、怖いんですけど。
「やはり、ウェディングドレスのデザインからね。お母様」
 カロリーネお姉様がうっとりして言う。
「もちろんですとも。三人でドレスや服の準備をたくさんしましょうね」
 いや、だから、その笑顔が怖いんですって・・・。
「宮殿も、クルトと一緒に住めるよう、どちらかを改築せねばな」
 お父様がさらに言う。
「え。あの宮殿で十分なのですけど・・・」
「いや。エミーリエの宮殿には穢れが着いた部屋がある。あとは安全に住めるようにせねば。昔の装置では簡単にやられてしまうことはあの時の事で明白になったからな。大臣達からも口酸っぱく言われているのだよ」
「大臣様達まで?」
「ああ」
 国は貧乏なのにスケールのでかいことばかり言う王家に呆れてしまった。血税なんですけど、と言いたかったけど、その享受を得ている身としては何も言えなかった。ただ、地味にしたい、つくづくそう思ったのだった。
20話
 内輪の食事会が終わると、早速、お母様とカロリーネお姉様はウェディングドレスのデザインにこだわり始めた。お母様とカロリーネお姉様がてんでバラバラな事を言い出す。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、と膠着状態に陥った。
「母上も姉上も本人の意思を尊重しないと」
 クルトが間に入って取りなしてくれる。じゃ、どうなの? と二人に詰め寄られ、負けた・・・。勝手にしてください。すごすご尻尾を巻いて逃げる私にクルトが言う。
「君のウェディングドレスだよ。君の好きなドレスにしないと後悔するよ。結婚は一度きりなんだから」
 クルトの言葉に、あら、とカロリーネお姉様が言う。
「今は一度きりじゃないわよ」
 離婚と再婚のことを言っているのだとすぐわかった。それにクルトがムキになって文句を言う。
「エミーリエは一回きりなの! 俺だけなの!」
「はいはい。エミーリエ、一緒に選びましょう。あなたが着るのですものね」
 穏やかにお母様が言って仲間に入れてくれる。なんだかそれが嬉しくてにこにこする。
「嬉しそうね」
 カロリーネお姉様が言う。
「本当に家族みたいで嬉しいんです。みんな過去に行ってしまったから」
「ここはあなたの実家。そして私達はあなたの本当の家族ですよ」
 お母様の言葉に心の隅っこにあった孤独が癒やされていく。ポロッと涙が一粒こぼれる。それをクルトが優しく拭ってくれる。今まで抱えていた何もかもが崩れて後から涙が大洪水を起こす。嬉しいのか悲しいのか寂しいのか、何もわからない涙がこぼれる。お母様とお姉様、弟、クルトが私の体に手をかけて抱きしめてくれる。ヴィルヘルムは背が届かないと言って椅子に乗ってまで私に愛情をくれた。嬉しかった。失ったはずのものが新しくなって戻ってきた。生まれ変わったのだ、と思った。この時代に新しく生きるんだ、と。その区切りが婚礼の式だった。
 婚礼の夜、またクルトは「ちゅー」って言うのかしら。そう思うと笑いがこみ上げてくる。
「どうしたのですか。泣いていたかと思うとけらけら笑い出して」
「いえ、私の中の事ですから」
「なかなか、きわどい事を思ったようね。詮索はしないでおきましょう。クルトとだけお話しなさい」
「え? 俺、思い出し笑いの元ネタ聞けるの?」
「わかってるでしょ? クルトの事で笑うことと言えば」
「『ちゅー』?」
「そう!」
 そう言ってげらげら笑い始める。その何がおかしいのか皆、わからないらしい。
「クルトはいつもこれですよ。小さい頃から。それが面白いのですか?」
 お母様達は不思議そうにしている。
「キスするのに『ちゅー』って変ですよ。ロマンティックにしないと」
「そういえばそうね。でも陛下も昔は『ちゅー』でした。遺伝ね」
「あの陛下が?」
 びっくりして今度はしゃっくりが始まる。
「変わった姫ね。エミーリエは。そこが皆を虜にするのね」
 にこにこのお母様に面影が映る。本当のお母様はカロリーネお姉様なのに。
「姉もいるわよ」
 ぽんぽん、と頭をカロリーネお姉様が叩く。
「一人じゃないんですね」
「そう!」
 全員の意見が一致した嬉しい日の事だった。
21話
婚礼の準備が進むにつれ、ついに私の住んでいる宮殿の改築工事が始まった。とんてんかんてん、とうるさい。その内、何の音なのか、ぐるぐると派手な音がし出す。
「お母様、改築工事をやめてください。あれでは睡眠もろくに取れません。うるさすぎます」
 工期が決まってるのか、夜中まで突貫工事だ。あのぐるぐるとドリルという機械だけでも止まって欲しかった。ぶーぶー、珍しく文句をたれる私にお母様が困る。
「そうはいってもね。穢れのある部屋は直さないといけませんからね。そうね。工事の間はクルトの宮殿にでも仮住まいしなさい」
「クルトの、ですか!」
 嫁入り前の娘が、事もあろうにか年頃頃の男の家に住むなんて!
 衝撃を受けている私を面白そうにお母様が見る。
「エミーリエは純真なのね。別に年頃の男がすんでいても、隣部屋に寝るわけじゃないですよ。クルトの宮殿も大きいですから部屋はいくつでもありますよ。内装が気に入らなければそこも変えますからね」
 また。あの音を聞くの?!
 げんなりしている私の頬を愛おしそうにお母様は触れる。
「可愛いエミーリエ。本当に純真なのね。そこがまた可愛らしいわ」
 お、お母様。目が据わってます。さすがはカロリーネお姉様を産んだ方。カロリーネお姉様以上の方らしい。その片鱗を見てびびる。
「そんなにおびえなくても大丈夫ですよ。節度は心得ているわ。クルトと一緒に仮住まいの部屋でも決めていらっしゃい。ずっと、婚礼の準備で気が詰まってるでしょう?」
 まるで本当の母のように気遣ってくれるお母様の言葉に思わず抱きつく。
「お母様、大好き!」
「さぁ。婚約者の仕事でもぶっ壊しに行きなさい。カロリーネが来る前に」
「はい」
 もう一度、ぎゅっとお母様を抱きしめると、クルトの宮殿へと走って行く。途中でカロリーネお姉様とすれ違う。
「ちょっと! エミーリエ!」
 カロリーネお姉様の文句の声が聞こえてきたけれど無視してクルトの元へ向かう。今頃はあの執務室で仕事をしてるはず。
「クルト!」
 執務室の扉を開け放つ。そこには信じがたい光景があった。
 一人の女性と、クルト。しかも、女性はクルトの腕の中。
「どういうこと?」
 エレオノーラお母様がよく出していたような怒りで冷静すぎる声を出しているのを自分でもわかった。きっと、目も据わっている、はず。
「エミーリエ。違うんだ。これは!」
「違うって。その女性はどなた?」
 女性が振り返って微笑む。
「あら。エミーリエ様。一足遅かったですわね。クルトは頂きましたわよ。そうでしょう? クルト様」
「イルザ! エミーリエに失礼だ。謝りたまえ」
「ふぅん。イルザって言うのね。じゃ、私は用なしね。さようなら!」
 くるりと踵を返すと目的地もないまま、また走り出した。手で目元を拭う。手には涙という名の水が付いていた。
22話
どこをどう走ったのか。いつしか何度かクルト達とピクニックに来た森に来ていた。胸元に持ち歩いている小刀がカン、と小さく鳴った。いざというときに使いなさいと言われて渡されたもの。
 母が眠りに着くときに持たされ、それを私がまた引き継いだ。この小刀はあの魔皇帝に切れた母が首元にあてて首に切り傷を与えたという曰く付きのものだ。
 首・・・。
 これで死ねるのかしら?
 手元の小刀をじっと見る。そこへ男の声がかかった。
「やめな。そんな綺麗なお嬢さんには似合わないぜ。一緒に来ないか?」
「って、どこへ?」
「ああ。やっぱりエミーリエ様だな。その言葉は。今の言葉で言ってくれ」
「あ・・・」
 自然と古代語が出ていたらしい。男も古代語ができるらしい。
「ごめんなさい。どこへ行くの?」
「保護者が来るまでの一時的な預かり所だ」
「クルトの元なんて帰らないわよ!」
「まぁ、いきり立たないで穏やかにお茶でも飲もう」
 悠然とした態度で男は言った。
「俺はアヒム。さぁ、我がねぐらへご案内しよう」
 男に手を捕まれてつかつか歩く。次第に森の樹がなくなり、一軒の家があった。私の眠っていた館とは違うけど、そんな雰囲気のある館だった。
 入ると、男がうじゃうじゃいた。
「親方! その女どこで?」
 男達がにやにやと見る。
「いい加減なこと吹き込むな。この姫はお館様の兄上の婚約者だ。手を出すな」
 ぞっとするような殺気を一瞬出してアヒムは言うと、奥の部屋に私を連れて行く。
「お館様って・・・もしかして・・・」
「アヒム!」
「ヴィー!」
 クルトに背負われてやって来たのはヴィルヘルムだった。クルトもいる。
「よく、女の子の足でここまで・・・」
 触れようとするクルトの手をさっと私は払いのける。
「さっさとイルザの所へ帰れば?」
「違うんだ。エミーリエ。イルザは別の王子の婚約者だ。だけど、妙に俺を気に入ってこちらにしょっちゅう来るんだ」
「で、抱きしめていた、と?」
「あれも誤解だ。イルザが抱きついてきて離そうとした途端に扉が開いたんだ」
「あれは女の目よ。イルザはあなたに恋をしてるの。熨斗つけてあげるわ!
 さぁ。アヒム。お茶でも出してくれるんでしょ?」
 クルトを無視してアヒムに向かい合った私はアヒムにくるりとまた回されてクルトと向かい合った。
「夫婦のケンカは犬も食わない。そのもめ事は二人で解決するんだな。お館様。冗談がきつすぎます。行方不明になった姫を確保しろ、とは」
 アヒムがヴィルヘルムに言う。
「ヴィーがお館様?」
「常に伏兵は持っておかねば、な」
 そこには紛れもなく魔皇帝として君臨していたおじい様がそこにいた。
「エミーリエ!」
「カロリーネお姉様・・・」
「もう、心配かけないで。イルザにはとっとと婚約者の王子に押しつけてきたわ。もう。宮殿の外にでるなんて。心臓が止まるかと思ったわ」
 ぎゅぅ、と抱きしめられる。ヴィルヘルムはクルトに言って同じ高さにまで抱っこされると肩に手を置いてくれる。
「エミーリエ。ごめん。そんなに傷つくなんて思いもしなかった。気をつけるよ。俺が大好きなのはエミーリエだけだ。あの館に幼い頃から出入りしてずっとあの姫と結婚するんだ、って夢見てた。その夢を壊す気は無いよ」
「クルト!」
 クルトに抱きつくと、私はわっと泣きだしたのだった。その見物客をヴィルヘルムが蹴散らしていた。ここではいい子じゃないらしい。それがおかしくて、泣きながら笑ってクルトが大いに困った。
「エミーリエ。泣くのか笑うのかどっちかにしてくれ」
「恋人を傷つけた罰よ」
 そう言って、私はもう離すまいとクルトを抱きしめた。
23話
「私、こんな所まで走ってきたの?」
 馬でとことこ帰りながら、私は驚いていた。あの時はなにか車というもので来ていた気がする。こういう道がなっていない所では馬が一番いい。私はクルトの前に座らされて、逃げられないようになっていた。その気になれば、逃げられたけれど、そんな事は通じない、と考えていた。
「また逃亡を考えているね」
 クルトが言う。
「違うわよ。こうまで警備されては逃げられないわね、って考えたのよ」
「似たようなもんじゃないか」
「違うわよ!」
 いけない。また泣いてしまう。声が震える。クルトがぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫。俺はエミーリエしか見てないから。明日から住む部屋、すぐに探そう」
「それ・・・」
「母上から聞いたよ。嬉しそうに君が飛び出して行った、と。それなのにこんな悲しい思いをさせるなんて、婚約者失格だね」
「クルト! 違うの。クルトのような人なら何人、側室を持っても平気にならないといけないの。でも、今の私にはできないの。どうすれば、この気持ちを収められるのかしら」
 私の頬から涙が伝う。大好きなクルトが他の人を好きになれば、なんて考えるだけでもつらい。もう、誰にも渡したくない。そんな自分の気持ちに気づいてはっ、とした。私はクルトからもう一生逃げられないほど、好きになっているんだ、と。いえ、だ、ではないわ。なっている、よ。
「姉上。そうなら、しっかり捕まえておかないと」
「ヴィー」
 ヴィルヘルムがアイコンタクトしてくる。
「捕まえるも何も。俺がエミーリエに捕まっているのに。他の女性を愛することはないよ。きっとこの家系なら跡継ぎは生まれるだろうから。娘ほしさに君に何人も無理を言うかもしれないけれどね」
「クルト! 乙女に言う言葉じゃないわよ!」
「カロリーネお姉様・・・」
「エミーリエ。今の言葉は聞かなかったことにしなさい。乙女の思考の問題じゃないわ」
 カロリーネお姉様がプンプン、怒っている。どうしてかしら? 不思議そうにしているとカロリーネお姉様が言う。
「私も乙女なのよ。これでもね」
「姉上が・・・乙女」
 ヴィルヘルムとクルトが口をあんぐり開けて驚いているのがおかしくてクスクス笑ってしまう。
「お姉様だって恋する乙女よ。婚約者の一人や二人いてもおかしくないわ」
 私が笑いながら擁護すると、ヴィルヘルムがいや、と言う。
「姉上、今進めている縁談は断った方がいい。何か嫌な予感がする」
「ヴィー?」
「あ。それは私も思っているのよ。何度も断ったのにしつこすぎる、と。お父様に言ったのだけど、聞き入れられてもらえないのよ」
「まずは兄上と姉上の同棲生活よりカロリーネ姉上の縁談阻止が直近の問題だな」
「えー。また、あの工事の音聞かないといけないの?」
「同棲生活なんてそれこそ犬も食わない。姉上と兄上できめておけばいいよ。カロリーネ姉上の方を探らないと」
 思案顔のヴィルヘルムに言う。
「魔皇帝になりすぎてるわよ」
「大丈夫。僕、何も知らなーい、から」
 声を変えて言われると本当にどっちが本物のヴィルヘルムかわからなくなる。
「どっちもヴィーだよ。俺たちも驚いたけれ、自分が誰かの生まれ変わりなんて、ヴィーが一番心を痛めたはずだ」
「兄上?」
 素のヴィルヘルムの顔がのぞいた。
「兄も姉もヴィーを大切に思っている。忘れないでくれ」
「うん」
 夕陽が落ちて夕闇がせまろうとしていた。
24話
城に帰ってくるとお母様もお父様もばたばたと馬に駆け寄ってきた。二人して私の腕をとる。そしてしきりに心配する。不思議そうな顔をしているとクルトがそっと言う。
「君は息子よりも大事な次女、なんだよ」
 次女。私にはお姉様がいなかったから少しくすぐったい気持ちで聞いた。今は妹なのね。嬉しそうに笑顔を返すとまた「ちゅー」といってクルトは顔を近づけてきた。そこに割り込む王妃様と王様、弟のヴィルヘルムに姉のカロリーネ様。みんながクルトの「ちゅー」を妨害してクルトはすねていた。それを見た私は爆笑する。
「クルト、何時までも『ちゅー』って予告してたら、止められるわよ」
「じゃ、予告なしならいいの?」
 ちろん、と恨みのこもった目で見られて私はうなった。それはそれで魅力的だけど、乙女に「ちゅー」は早すぎるわ。新妻の特権よ。
「姉上、新妻の特権なんて言ってたらいつまでたっても離してもらえないよ」
「ヴィー!」
 私は真っ赤になってヴィルヘルムを追いかけ始める。次第にそこに笑いが起きた。ヴィルヘルムも私もみんな、笑っている。幸せな時間がそこにあった。
「まぁ。幸せなこと」
 陰湿な声にはっとした。誰?
「アウグスタ」
「息子に娘に恵まれた王妃様はそれはよろしゅうございますねぇ。私の方にも分けて頂きたいわ。ねぇ。陛下」
「う、うむ・・・」
 気味悪い雰囲気が辺りを包む。
「アウグスタ母上、ここはエミーリエ様がいます。お話なら父上、母上となさって下さい。エミーリエ様は国の宝。いくらアウグスタ母上でもこの場を穢せば何が起こるかおわかりですね」
「ヴィー!」
 しっかりとヴィルヘルムを抱きしめる。まるで殺さんばかりににらみつけている。
 どうしたのかしら。ヴィルヘルムがこんなに殺意というものを持つなんて。幼い子供だけじゃなくても不穏過ぎるわ。
「さぁ。行きましょう。エミーリエ様。失礼。アウグスタ様」
 カロリーネお姉様が手取って一緒に連れて行く。クルトもヴィルヘルムも私を守るようにその場を離れる。厩の敷地を出ればさっきの嫌な雰囲気は一掃されていた。
「もう。大丈夫。アウグスタ様は魔力をお持ちだから、エミーリエ姉上にとっては脅威なんだよ」
「って。私も魔力を持っているわよ?」
「僕ほどではない。僕でも喰われかねないほど持っている。その力がありすぎて離婚できないんだよ。ヘビのように絡みつくから」
「カロリーネお姉様の縁談、もしかして、アウグスタ様の?」
 そうよ、とカロリーネお姉様が言う。
「そんなしょうもない事より、今日から住む部屋を決めましょう。ほら、こっちよ」
 カロリーネお姉様が手を引く。つられて小走りになる。私達はあっという間にクルトの宮殿に入っていた。
25話
「ほら。エミーリエ。ここの部屋はどう?」
 乙女チックなピンク一色の部屋に案内されて私はうなる。
「どうしたの?」
 ヴィルヘルムが見上げる。
「今は、ピンクの乙女じゃないのよねー」
「じゃ、こっちだ!」
 ヴィルヘルムが手を引っ張る。今度は金銀財宝にあふれた部屋だった。権力者だったおじい様らしいわ。クスクス笑う。
「エミーリエの笑顔は俺のモノ。さぁ、こっちだよ」
 やっぱり最後はクルトが奪っていく。二人ともじとーっとクルトを睨んでいた。クルトが案内した部屋は夕闇の中でも明るく、優しい色合いの落ち着いた部屋だった。
「そうね。ここにしようかしら」
「いいの?」
「どうしたの? クルト」
「ここ、俺の自室の隣」
 やっちまった、とでも言わんばかりのクルトの首を絞めにかかる。
「え、エミーリエ。わかったから。殺さないでくれ」
「それぐらいで死ぬもんですか。この部屋は却下ね。気に入ったけど」
「えー。ここで恋人の語らいをしようよー」
 ふざけて言っているけれど、何か違う感情が伝わってきた。
「クルト?」
 目配せすると軽く肯く。アウグスタ様のことね。カロリーネお姉様の縁談を木っ端みじんにしなくてはいけない。ここで作戦を練るのだ。ヴィルヘルムが割り言ってきた。
「仲間外れにはしないよね?」
 にっこり笑う。それがまた恐ろしい。可愛い笑顔の下には覇王とも呼ばれた魔皇帝の魂が残っているのだから。
「ヴィーも入ってくれるとありがたいわ」
「やった。さぁ。恋人達の時間だよ。カロリーネ姉上は宮殿に帰ろうー」
「え。私は仲間外れ~?」
 カロリーネお姉様の声が響いてくる。策を巡らせるにはまず味方から欺かないと。カロリーネお姉様には当分内緒。
「じゃ、お腹空かない? 夕食にしよう。一緒に食べるよね? もちろん」
 クルトの頭の上にお花が咲き乱れていた。馬鹿面に見えるけれど、その実はしっかりと策を巡らしていることは一目でわかった。あとでヴィルヘルムが突撃してくるだろう。
 私とクルトは食事をする部屋へと向かう。いちいち用事事に違う部屋があるらしい。私の宮殿すらとんでもなかった。代々、皇太子が住む宮殿として増改築を繰り返してきたらしい。構造もめちゃくちゃだ。このときまでに待っていればいいのに。
「まぁ。時の皇太子も大変だったんだよ」
 え?
 私とクルトは顔を見合わせた。
「魔力の共有・・・してない、よね?」
「うん」
 お互いの声が聞こえる。魔力の共有なしに相手の心の声が聞こえることはなかったはず。お互い、顔を見合わせているとヴィルヘルムの声がした。
「兄上と姉上の魔力はもう結びついているよ。お互いに好き、ってわかってから」
「ヴィー! どういうこと」
「どういうことなんだ」
 私と来るとはヴィルヘルムの肩をむんずと捕まえて聞き出そうとしていた。

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